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1993年10月28日、僕らはあの日を決して忘れない(W杯米国大会アジア地区最終予選)。 

もうかれこて20年も前の話になります。月日が経つのは早いものですね。ワールドカップ初出場を目指し、初の外国人監督となるハンス・オフト氏を招聘して臨んだワールドカップ予選。第一次リーグで、スリランカ、バングラデシュ、タイ、UAEを相手にグループリーグトップで通過し、いわずと知れたカタール・ドーハでの最終予選ラウンドへ。

当時のアジア予選はまだ「セントラル方式」と呼ばれる第三国に集まりリーグ戦を行う方法を採用していました(仏大会予選からアジアもホーム&アウェイに変更になります)。出場国のサウジアラビア、イラン、北朝鮮、韓国、イラク、日本でしたらドーハでの試合は圧倒的にサウジとイラン、そしてイラクが優位に立ってるのは間違えなかったかと。まあ当時のアジアのフットボールの地図は中東と韓国が列強でしたので、致し方ない部分もあったのでしょう。日本はまだ新興国の一角。アジアを制したばっかりでしたし、発言力も小さいものだったのかと。

ちょうどこの年って「J元年」で、選手のコンディションはそれほど良くなかったとこのNumber「ドーハの悲劇 20年目の真実。」に書かれています。選手達は今までとは全く違う環境でプレーして、気合いが入らない訳ないですからオーバーワーク的な部分もあったのでしょうか。ただそれを「選手として未熟」と言い切る事なんて誰が出来るでしょうか。あの熱狂の渦を少しなりとも経験した人間なら分かる話かと。


あと試合以前から言われていた「左サイドバックの都並さんのバックアッパー」問題。カリオカ・ラモスの進言があって三浦”やっさん”泰年選手が呼ばれてそこに入ったのは有名な話かと思いますが、元ジェフの江尻選手あたりも試されていたって書いてあってこれは記憶に無いんですよねぇ・・・。結局、ここの穴埋めが出来ずに戦犯として上げられる事の多い都並さんですが、自らも「ドーハの戦犯」だと思っているとインタビューに答えています。選手全員が私にとってドーハはという問いかけをされそれぞれが直筆で答えているのですが、都並さんの答えはこの20年間思い続けてきたあの都並不在の最終予選への欠落感を埋めてくれるものでした。

管理人は当時BSで観戦していまして、実況は寅さんこと山本浩アナ。そして解説は田中孝司さん。あの壮絶な数日間を山本アナの名著、「メキシコの青い空 実況席のサッカー20年」の中でも詳しく取り上げられています。試合も忘れていた部分を補完してくれますし、勿論当時の寅さんの名調子ものっています。


その頃、代表のスタッフとかまではまだ興味がわいてなかったと思うのですが、この本によりますとスカウティング担当はガンバ黄金時代を築いた西野朗さんと人間力・山本昌邦さんだったそーです。皆さんご存知のとおり、このあとお二人はそれぞれ、西野さんはアトランタ五輪代表監督になり、一方山本さんはアトランタ五輪コーチ→U-19監督(世代的には俊輔とか恒様、戸田やQBK等々)→シドニー五輪監督→02の日韓と時はコーチに。このお二人、というか特に山本さんはJFAから寵愛されてるって言われてましたが、山本さんは現場よりしゃべってるほうがいいと思うのでこれ以上呼ばないで下さい>JFAやJリーグクラブ関係者様。

当時の選手は今現在指導者として後身の育成だったり、スカウトだったり、そして伝える側だったりとしても「あの思いをさせてはいけない」という気持ちはあるのではないかと思います。見る側としてもしかり。その思いが今日の日本代表を形作ってきたのは間違えない事かと。ただ、あの思いがだんだん薄れてきているのも事実な気もします。あの魂をかけて闘った試合の記憶が。一般の人からすれば「日本がワールドカップに出るのは当たり前」なんて思ってる人のほうが多数なのかもしれませんが、管理人はそーは思っていません。現状のアジアの「4.5」枠が崩れれば、そして中東の政治的な混乱が鎮火すればこの先どーなるか。そう、かつてのライバル達は黙っていないかと。だからこそ、「ドーハの悲劇」といわれたあの戦いを思い出し、襟を正すべきなのではないでしょうか。そして14年の本大会を迎えて欲しいと願っています。

あの頃フリューゲルスに興味があったので大嶽選手は好きだったのですが、ギラヴァンツ北九州のコーチになっているのを知りちょっと嬉しくなってしまった管理人でございました。引退されてサンガのコーチなられてたのは知ってたと思いますが・・・。


SAMURAI BLUE サッカー日本代表
http://samuraiblue.jp/



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友人と10年ぶりの再会を果たしました(ドラクエX)。 

数日程前といってももう2週間以上前のことでしょうか。ドラクエXで多くのプレーヤーが「日課」としてるであろう、「魔法の迷宮」に潜っておりました。この魔法の迷宮、プレーヤー同士を自動的にマッチングさせる仕組みが備わっており、なんとなく職業を「アタッカー枠」・「ヒーラー枠」・「バフ・デバフ枠」みたいな感じから4人を同レベル程度に合わせて抽出しているよーです。管理人の体感で申し訳ないですが、なぜか盗賊は盗賊同士になることが多い気もします・・・。

その日は既に数回潜った後で、魔戦のレベル上げとトルネコさんミネアさん目当てを兼ねて行ってたと記憶しております。何回目かの迷宮で恒例のあ挨拶の後に突然、

「間違ってたらごめん、おでん鯖にいなかった?」>(管理人のプレーヤー名)

とパーティーチャットで呼びかけられまして、唖然とする管理人。 このブログにも度々記事をエントリーしています通り、FF11はPC版スタート時の2002年11月でしたっけ?位から昨年の4月前後くらいまで課金しておりました。おでん鯖というのは、FF11のOdin Server(No.11)の通称でありまして、管理人、FF11とドラクエXでのプレーヤー名が一緒なんでこのことであろうと。

「どーゆーことです?」と聞いてみますと、「フレでした」と返答が。その方はFF11とドラクエXで名前が全然違っていて、FF11のでの名前をお聞きしますと・・・。かれこれ11年も前、冒険者としてヴァナディールに降り立ちましたが、サルタバルタで冒険の右も左も分からないような新米冒険者に声をかけてくれたヒゲヒュムさんがいらっしゃいました。いろんな事を教えて頂いたと記憶していますし、色々遊んでもらったこともあったかと。/tellでいっぱい話しましたし、記憶違いかもしれませんが南グスタのバスへのゲート前かなんかで鉢合わせした事も有ったような・・・。今でもよーく覚えているのが、当時シーフのAF装備を着れるくらいのレベルだった管理人。その頃のトレンドといいますと、懐かしーの声が各所で聞かれるであろう通称「横だま」時代。当然AF着れるってことはそれなりに横だまってた訳でして、そんな話をヒゲヒュムさんに相談されたんです。「横だまってどーやるの?」みたいな感じで。

「なら練習しましょう」という事になり、二人で向かった場所はバタリア丘陵のジュノから一番近い古墳がある南側の辺りへ。あそこにいらっしゃる蟹さんにも手伝って頂きまして、まずなんで横から不意打ちとだまし討ちが両立するのかなんて話からしたよーに覚えています。(理由はここに詳しく記載されております)。

そのヒゲヒュムさんはジラートくらいまではプレイされてたと記憶しておりますが、その後辞められておりFF内の古い友人の一人なんでフレンドリストを開くとどーしちゃったのかなぁなんて折に触れて思ったりもしておりました・・・。その方が目の前にいたんです。しかもプレイしているゲームも異なるし、FF以外で連絡を取り合った事もないですし、もっというと自動マッチングシステムのダンジョンで無数のプレーヤーから選ばれた人の中に10年前程に知り合い一緒にヴァナディールを冒険した人が再び目の前に現れるって奇跡でしょ?管理人、その方の名前を聞いた時にちょっと涙がこぼれましたよ。本当に懐かしかったです。こんな事ってあるんだなぁとも。

あの後あまり話す機会がないのですがフレリストで観察してますと、どうも盗賊がLv.75で僧侶のレベルも急激に上がっているようなので、これはぜひコインボスや強ボスに、そして災厄のあんちくしょーなんかも遊べたらなぁと思っています。ヴァナディールだけでなくアストルティアでも宜しくお願いします>>古い友人へ。

友人がかつてのヒゲヒュムの片鱗がどこにもない男の子のお兄さん?のキャラに変身していたことに驚きを隠せない故郷ヴァナディール・避暑地アストルティアと言ってはばからない管理人でございました。ヒゲダンディのイメージが・・・。


『ドラゴンクエストX 目覚めし五つの種族 オンライン』
http://www.dqx.jp/



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